平成23年
松山市の護国神社に、「小才は縁に出会って縁に気づかず、中才は縁に気づいて縁を生かせず、大才は袖振り合う他生の縁をも縁とする」という言葉が飾ってあります。今日は、もしあの縁が無かったら、今の砥部病院は無かったというお話をしましょう。
もう15年も前のことになりますが、私が広島県三原市の興生総合病院に勤めていた時のことです。三原看護専門学校より、解剖生理学の講師派遣の依頼がありました。当時興生病院には40人の医師が勤めておりましたが、「講師は外科の森岡と内科の中城に決まるだろう」といううわさが流れておりました。私はこれ以上忙しくなると大変だ、この流れを何とかしなければならないと思いました。臨時の医局会で講師派遣の議題になった時、私はさっと手を挙げ、「解剖や生理は医者なら誰でも習っています。内科や外科に限定するというのではなくクジ引きで決めましょう」と言いました。皆がドッと笑い「やっぱり中城やな」と誰かが言って講師は私と森岡先生に決定されました。いやいやながら、初めて看護学校に行った時、対応して下さったのは松山市の松精看護専門学校から移って来られた高橋久恵先生でした。先生は今までの経緯を知ってかどうか、私に向かって「先生、教えてやるという態度ではだめなのよ。一緒に学ばせていただくという姿勢で勉強してきて下さいね」と言われました。その頃、私は若くて、すなおな少年のような心を持っていましたので、「はい」と返事して帰りました。さっそく過去十年分の看護師国家試験問題の出題傾向を調べ、教科書に線を引き、そこを中心に教えることにしました。講義が終わると高橋先生から「看護とは何か」ということについて、いろいろお話を聞くことができ、充実した日々を送っていました。砥部病院に赴任することが決まった時、「中島に居る私のお父さん、お母さんを安心して預けられるような病院にしてね」というお言葉をいただき、今もそのお言葉はしっかり胸に焼き付いています。
砥部病院に来てから看護が全くできていないのに唖然としました。どなたか看護師たちをまとめ、組織として良い看護を行えるように、総師長にふさわしい人を紹介してもらおうと高橋先生に電話しました。すると、「私の教え子で抜群の子がいるわ。先生はその人のお人柄とか力量をみる必要は全くありません。私が保証するから、ひたすらお願いするのよ」と現在の徳本福子総師長を紹介していただいたのです。この十年間、総師長のおかげで、砥部病院の看護、介護の力は数段レベルアップしました。すべての委員会を取り仕切り、看護師、ヘルパーの良き理解者として頑張って下さっています。この徳本総師長を先ほどの力強いお言葉でご紹介下さったのが高橋久恵先生です。三原の看護学校で高橋先生と出会ったご縁で、今の砥部病院があるのです。
平成23年7月24日