平成23年
奥島孝康元早稲田大学総長(立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花の森永小百合さんと同じ日吉村出身)は、済美高校に対して「男女共学にしなさい。それから、野球部を創りなさい」とアドバイスされました。それを受けて10年前、創立100周年を記念して、済美高校は男女共学とし野球部を創設しました。そこで、上甲正典監督が初代野球部監督に迎えられ、見事に初出場、初優勝を飾ったことは、私たちの記憶に新しく、「やればできる」という校歌の一節は日本全国で有名になりました。私は野球部のチームドクターとして、済美高校生をずっと見守ってきて、済美高校が好きになって、三男を推薦で済美高校に進学させたことにより、PTA役員を引き受けることにしました。
PTA総会で、野澤校長先生が「愛媛県は県立高校志向が強い。県立を落ちたから済美高校というのではなく、県立か済美かという選択をされるような高校にしたい」と話されました。その後、PTA役員の挨拶が始まりました。役職名と名前だけを言って「よろしくお願いします」の流れでは、参加している約300人のご父兄は、さぞ退屈されているだろうと思いました。私の番になり、本当は「副会長の中城です」と言わなければならないところを、「砥部病院の中城です」と切り出したものですから、あとは演説が止まりません。「先ほど校長先生から、愛媛県は県立志向が強いというお話がありましたが、病院においても同じであります。昔は、助かりたいなら県病院、死んでもいいなら砥部病院と言われていました」ここで、場内は大爆笑。「その後、私たちの努力で、まさかの時の砥部病院と、まことしやかに県病院、日赤、大学病院の先生方から言われるようになりました。次に目指したのは、さすがの砥部病院と言われるようになることでした。最近では奇跡の砥部病院と言われています。子供の進学の後、私たちが直面するのは親の介護の問題です。その時は、また砥部病院をよろしくお願いします」と挨拶、拍手喝采を浴びました。私の意図したところは、「昔、済美高校は、県立高校を落ちた、まさかの時の済美高校でした。最近では、野球部をはじめ運動部の活躍、進学実績により、さすが済美高校と呼ばれるようになり、次に目指すのは奇跡の済美高校ブランドである」ということだったのです。うまく伝わったかどうかわかりませんが、病院の宣伝にはなったような気がします。何より岡田事務長の奥様に喜んでいただき良かったなと思いました。総会のあと皆さんが私のところに来て下さいました。PTA会長は、「私の娘岡田奈々が去年、先生の所へ研修に行きました。帰ってきて、『おじいちゃんとおばあちゃんが行く病院ができたよ。砥部病院だよ』と言っていました」とのことでした。若き医学生の心を捉えたものは何か。やはり、砥部病院の「人間としての関わり合いを大切にする心」だったのではないでしょうか。
平成23年5月25日