令和5年
「天国の門」という題で、時事通信社の「厚生福祉」に随筆を書いた。続編「天国の門・愛妻編」と共に、2か月連続で、巻頭を飾った。執筆中には、いろいろな人の終末期を思い出す。私も「いつか死ぬ」ということを改めて自覚した。
ドイツの哲学者、ハイデガーは「人間はいつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きていることを実感することもできない」と語っている。
「死」を意識することは、現在の「生」をより輝かせることにつながる。自分の死を意識したことで、一日一日が愛おしく感じる。日記を書くようになったが、今日一日で、こんなにたくさんの人に出会ったのかと、感心することがある。お世話になったら、感謝の念を綴る。万年筆で字を書いてみると、たくさんの漢字を忘れていることにも気が付く。
アメリカ留学時代からの親友は、最後の最後まで、抗がん剤が投与された。その副作用に耐えながら、立派な最期を迎えた。
先日亡くなった恩師も、最後の最後まで、抗がん剤の投与を希望した。肝不全状態になり、抗がん剤が中止され、奥さまから面会を依頼された。久しぶりにお会いして、一緒に研究していた時の話など、共に昔を懐かしむ最良のひと時を過ごした。
ともすれば、副作用が心配されるような抗がん剤の投与を回避して、緩和ケアのみを受け入れることが賢明な選択肢、と思われる風潮が確かにある。
しかし、自分の人生は自分が決めるもの。最後まで、生きることにこだわり、生きている間に自分のやりたいことをやり尽くす。これも立派な生き方である。
正岡子規は「病床六尺」の中で「余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りということは如何なる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、悟りということは如何なる場合にも平気で生きて居ることであった」と書いている。
つらい抗がん剤治療を受けながらも、平常心で、仕事や自分のやりたいことに没頭する。人生の最後まで自分らしく生きていく。私もそうありたいと願うし、こんな素敵な生き方をしている人を心の底から応援したい。その人から、この人と話していると心が安らぐと思われるような人間に成長したい。
生かされていることは、決して当たり前のことではない。と気づくと、身の周りの人が、みなかけがえのない大切な人に思えてくる。相手に「ありがとう」と素直に言ってみる。返す言葉も「こちらこそ、ありがとう」となり、感謝の気持ちが響き合う。こんな幸せな日々が、見事な一生につながるのである。
令和5年7月24日
砥部病院 院長 中城 敏