令和5年
先進7カ国首脳会談(G7広島サミット)が令和5年5月19日、広島市で開幕されました。G7の首脳が平和記念公園内の原爆資料館をそろって訪問しました。残念なことに、首脳が一人の人間として、どのような感想を持ったか、面会した被爆者の小倉桂子さんにどのような質問をしたかは、明らかにされませんでした。
俳人、相原左義長先生の代表作に「ヒロシマに残したままの十九の眼」があります。
左義長先生が19歳のとき、軍の特命を受け出向中、広島駅構内で原子爆弾に遭い、広島の惨状を目の当たりにします。何歳になっても、目を閉じれば、その状況が目に浮かび、眼は19歳の時のままなのです。
今から50年前、14歳の夏、私は学校行事の見学旅行で、広島に行きました。原爆資料館に入った時、衝撃を受けました。原爆で全身火傷を負った少年や少女の写真、銀行の石段に残る人の影、熱線でグニャグニャになったガラス瓶など、原爆の悲惨さを嫌というほど知らされました。
18歳になって、浪人生活を広島で送りました。下宿では、佐伯里(さと)おばさんが生活や食事のお世話をしてくれました。
おばさんは、爆心地から1.5kmのところに住んでいました。原爆が投下された時、おばさんの顔に、無数のガラス片が突き刺さります。「また出てきた」と顔の頬から出てきたガラス片を見せてくれたのは、私が下宿していた時ですから、戦争が終わって33年も経ってからのことです。
砥部病院でも、被爆された方に出会いました。広島市横川で材木商を営む両親のもとで、タヅエさんは爆心地から1.3kmの広島逓信局に勤めていました。原爆が投下されて、奇跡的に助かり、山の方に逃げる途中で、女子学生と合流します。女子学生は白いブラウスを着ていたため、上空の米軍戦闘機から格好の標的となり、機銃掃射でバタバタと倒れていきました。初めて聞く話でした。せっかく助かった命が、このような酷い結末となったことに深い憤りを感じました。横川は焼け野原になっていて、タヅエさんは両親に逢うことはかなわず、祖母を頼って砥部に帰ってきました。
坂村真民先生は、「宇宙のまなざしをもって、母なる星、地球を平和で幸福な星にしてほしい」と願いました。
各国の首脳が、ヒロシマの心を理解して、少しでも宇宙のまなざしに近づき、核廃絶に向かっての第一歩を踏み出すことを切に願っています。
令和5年5月24日
砥部病院 院長 中城 敏