令和4年
矢野章乃さんと初めて出会ったのは、平成26年8月22日の外来でした。この時すでに章乃さは92歳。最初の言葉が印象的でした。
「人生の終わりのほうで、しんどかったり、痛かったり、難儀かったら、いかんけん、病院に来た。名医にかかって、何とかしてもらおうという気持ちは、さらさら無い。歳じゃけん」と言われました。私は、痛くも、苦しくもない最期を看取ることを約束しました。
それから、毎月外来に来られるたびに、いろいろな話を聞かせていただきました。
敗戦から1年後、満州からの引き上げがありました。長男を前に抱っこし、後ろにリュックを背負って、機関銃の弾の中、半死半生で逃げたとのことでした。公園の向こうには、蒋介石の軍隊、こちらには共産党の八路軍、「オーメン スパロ」(私たちは八路軍に属しています)と言いながら、難を逃れたそうです。
満州からの引き上げ列車には、乳飲み子を連れた人がたくさんいました。栄養失調で冷たくなってしまった我が子を、鉄橋に差し掛かると、川の中に一斉に投げ込んだという話には、涙が出ました。
令和2年9月17日、砥部町民会館で白寿の祝いがありました。記念講演「老いも認知症も妻もあきらめて生きる」を私が行い、壇上からは章乃さんの顔がよく見えました。章乃さんは、一番前の席に座っていました。
あとで聞くと、その席まで行くのに、何段も階段降りなければならず、途中でトイレに行くために、何段も階段を登り、また何段も階段を降りなければならなかったそうです。この時のことが相当身体にこたえたとのことでした。「死にかけとるのに何でこんな目にあわされないといけないのか、満州からの引き上げの時よりしんどかった」と役場に苦情の電話をされた話を、微笑ましく聞かせていただきました。
9月28日午前8時52分、100歳になりたての矢野章乃さんは旅立たれました。息子さんご夫妻が作られた秋茄子の煮付けを食べ、「あーおいしい。最高」と幸せそうな顔で言われた、その10分後、突然の心停止でした。痛くも、苦しくもない、大往生だったと思われます。矢野章乃さんの最期の言葉は、前日夕方、「先生はうそつきじゃなかった」でした。「臨床とは、とことん付き合った症例の積み重ねである」という、元第三内科助教授田中昭先生にいただいた言葉を思い出します。これからも、気を引き締めて、患者さんと、とことんつき合わねばと思う今日この頃です。
秋茄子は末期の食事百寿(ももじゅ)果つ
泣きながら診断書書く末の秋
令和4年10月24日