令和4年
令和4年5月15日砥部オーベルジュで一成先生の結婚式が行われ、祝辞を述べました。
一成先生、紘子先生、ご結婚おめでとうございます。山本家、増田家の皆さま、誠におめでとうございます。増田整形外科の増田先生におかれましては、私の俳句の師匠、藤田ひろむ先生をいつも暖かく見守っていただき、ありがとうございます。
「今日は来て良かった」。これは、紘子さんのおじいさんにあたられる、相原左義長先生が言われた言葉です。平成28年1月21日、伊予医師会で、相原左義長先生90歳の時に講演していただきました。昭和20年、岩国航空隊に出向中、広島駅構内で原子爆弾に被爆、その時の俳句が有名な「ヒロシマに残せしままの19の眼」です。この句碑は、一成先生が卒業した麻生小学校に建てられています。
左義長先生は被爆後も、広島の復興を見るために、毎年のように広島に出かけます。いかに、広島が立派に復興しようとも、原爆が投下された時の惨状を焼き付けた19歳の眼は、ヒロシマに残したままなのです。俳句道が即人間道であることが、よくわかるエピソードではないかと思います。
左義長先生の講演のあと、私は質問に立ちました。「先生のお話の中に出てきた佛通寺は、三原市の佛通寺ですか」と聞くと「そうじゃ」と答えられ、「あすこは」と先生が言いかけた時に、「もみじがきれい」と私が言うと、「あんたよう知っとるの」と言われ、「今日は来て良かった」と満面の笑みで言ってくださったことが、昨日のことのように、思い出されます。
また、「先生が息子さんを河野家の養子に出されたのは、一遍上人が大好きだからですか」と聞くと「それもある」と言われました。「脳神経外科医朝寝の階下に父」という俳句は、疲れ果てて帰ってきた息子さんを、1分でも1秒でも休ませてやりたいという、父親の愛情がにじみ出ています。
この愛情豊かな左義長先生のお孫さんである紘子さんと、砥部病院の将来を担って立つ山本一成先生が、ご結婚され、こんなにおめでたいことはありません。
かつて、済生会松山病院の院長をされていた、第三内科田中昭先生から、「臨床とはとことんつき合った症例の積み重ねである」という言葉をいただきました。一成先生は、着任の挨拶で、「患者さんに尽くすことで、自分の役割は自ずから与えられる」と言われました。患者さんに、とことん尽くして、立派な役割を得て、家庭内では紘子さんに、とことん尽くして幸せな家庭を築いていただきたいと思います。
椿神社の本殿に上がる階段の最初の句碑に左義長先生の俳句が刻んであります。
「悠久に一番近い飛び込み台」。「伯方島で句会をした時、夜のとばりの中にある、静かな海の中の飛び込み台の上に立ったとき、人類の永遠の姿がありありと語りかけてくるような錯覚に陥る。勇気を出して飛び込み台を蹴る。息を止めた海中の数秒間が悠久につながっていることを実感する時だった」とありました。
私にとっては、椿神社の階段の入口にあるこの俳句は、悠久の太古から存在する椿神社こそが、悠久につながるための一番近い飛び込み台ですよ。みんな、早く、この階段を登りなさいと左義長先生が言っているような気がします。本日、このオーベルジュが、お二人にとって、「幸せに一番近い飛び込み台」でありますことを祈念いたしまして、お祝いの言葉とさせていただきます。
令和4年5月15日