名誉院長の麻生だより
砥部町の歴史で、必ず知っておかなければならない人物は大森彦七である。八取川で鬼ばばに遭遇した武将である。
太平記二十三巻に「暦応五年(1342年)の春の比(ころ)、伊与国(伊予の国)より飛脚到来して、不思議の注進あり」という書き出しで、大森彦七のことが記されている。
建武三年(1336年)五月、兵庫県の湊川の戦いにおいて、大森彦七は足利尊氏側に付き、楠木正成を切腹に追いやった。
この功績により足利尊氏より、大森彦七は砥部一帯の土地を安堵(あんど)される。ある日、彦七一行は猿楽能の舞台のある松前町の金蓮寺に向かう。途中矢取川のほとりで、しくしく泣いている美しい娘に出会う。きっと川を渡れずに泣いているのだろうと、娘をおぶってやり、川を渡っていると、水面に映る娘が突然、鬼ばばに変化する。楠木正成の怨霊だったのである。その後、何回も彦七は楠木正成の怨霊に襲われ、気が狂い、座敷牢に閉じ込められるが、禅僧に勧められた大般若心経を唱えることで救われる。
これが太平記に記載された大森彦七である。実在しない人物のように思われるかもしれないが、大三島にある大山祇神社には大森彦七が寄進した刃渡り180cmの刀が存在している。
時代は下り、子孫は本能寺の変(1582年)の後、天王山の戦いで、明智光秀方に味方し、敗れて一族郎党離散した。一部が旧北条市善応寺の河野氏を頼って、旧北条市小川に住みつき、代々庄屋を営む。
明治になって、大森彦七の子孫大森盛籌(もりかず)は、風早郡(旧北条市)と和気郡(松山市)の境にある粟井坂が交通の難所であることより、私財を投じて岩山を切り開き新道を建設した。海鮮北斗の前にある道である。これによって人々の往来は非常に楽になった。大森盛籌を顕彰する石碑が粟井の公園の中に立っている。
地域の歴史が中央の歴史と密接に関係しているところが面白い。歴史を知ることによって、その地域に愛着が生まれる。
同様のことは、医療、看護、介護の現場でも経験できる。その患者さんの歴史を知ることによって、心の底から、その人に寄り添い、その人の尊厳を守りたいという気持ちが生じるのである。
令和元年8月24日