名誉院長の麻生だより
6月の昼礼で、清水真師長が、「価値とは、それを見る人のアイデア(考え方)による」と言いました。その言葉の意味をずっと考えていたところ、禅の言葉に突き当たりました。
禅に「閑古錐(かんこすい)」という言葉があります。「閑古錐」とは、古くて先が丸くなり使えなくなった錐(きり)のことです。
世間では、鋭く尖った錐に、道具としての価値を認めますが、長年使われて切れ味の悪くなった錐は、道具としての価値がないと考えられ、道具箱の隅で、錆びついて眠っています。
ところが禅の世界では、長い年月を費やし、来る日も来る日も穴を開け続けて先の丸くなった錐には、鋭いだけの錐にはない、円熟した価値を見出しています。
禅僧が修行によってたどり着かなければならない境地は、鋭く尖った優秀さの先にある「閑古錐」の円熟味のある境地なのです。
世間の価値判断では、先の丸くなった錐は役立たずのものでしかありませんが、禅の世界では非常に尊ばれている、価値とはこういうものなのだと思います。
ここにきて「なぜ木偶の坊になりたいのか?」と長年理解に苦しんだ宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の本当の意味が見えてきました。
ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイウモノニ ワタシハナリタイ
「みんなに木偶の坊と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされない者になりたい」というのは、修行の先にある「閑古錐」の境地に辿り着きたいという賢治の思いなのではなかったかと考えられます。
日照りの時の雨には価値があり、長雨の時の雨はうっとうしいとするような、世間の「誰か」が自分に下した価値に一喜一憂する必要はない、それなら一層のこと世間の評価に無縁の「木偶の坊」であったほうが清々(すがすが)しいと考えたのではないでしょうか。
「空気のような存在で、知らず知らずのうちに人の苦悩に寄り添い、いつの間にか人を救っている。救われた人さえも気づかないままに」そういう布袋様のような人に賢治はなりたかったのだと思います。
本日、私は還暦を迎え、これからは、円熟味溢れる「閑古錐」と、布袋様のように迫力ある「木偶の坊」を目指したいと思います。
令和元年6月24日