名誉院長の麻生だより
「地域包括ケア病棟」を構築するために東奔西走する3か月でした。事務方のみなさんには、これまで以上に、しっかりと砥部病院を支えて頂いたことを感謝しております。
さて、8月14日介護付有料老人ホームTo-beで被爆ピアノの演奏会が催されました。昭和20年8月6日朝8時15分(翌日徳本福子総師長がお生まれになります)広島に原子爆弾が投下されました。
昭和53年、私は爆心地から1.5kmのところにある予備校の寮に下宿していました。寮母さんの名前は佐伯里(さと)さん。原爆が炸裂した時、この地で暮らしていました。爆風によって家のガラスは粉々に砕かれ、おばさんの顔に突き刺さりました。1歳の娘さんはお尻に大きな火傷を負いました。
おばさんと娘さんは、被爆直後に宮島の親戚に避難しましたが、ご主人はこの地に留まったため、急性の放射線障害により昭和20年9月20日に亡くなられました。
私が下宿していたのは、太平洋戦争が終わって33年も経ってからですが、おばさんの顔からは時々ガラス片が出てきて、私に見せてくれました。原爆投下当時の話や、被爆者や原爆二世の結婚差別の問題についても話してくれました。この時くらい戦争を身近に感じたことはありません。
広島から運ばれてきた被爆ピアノにも、無数のガラス片による傷がついていました。この傷を見た時、里おばさんのことを思い出して涙が出そうになりました。
ピアノの演奏は溝田麻美さんに依頼しました。ところが私の勘違いで溝田さんはソプラノ歌手、ピアノは専門ではありません。これが幸いして、溝田さんにピアニスト栗田さんを紹介して頂き、溝田さんの歌、栗田さんのピアノ、栗田さんの娘さんのフルートの音楽会が催されました。被爆ピアノとフルート、歌声の織りなすアメージング・グレースは圧巻でした。歌詞の通りAmazing grace how sweet the sound(アメージング・グレース 何と美しい響きであろうか)を感じた被爆ピアノ演奏会でした。
平成28年8月24日