名誉院長の麻生だより
平成25年9月19日は中秋の名月の日でした。皆さんはお月見を楽しまれたでしょうか。私は9月27日までに書かなければならない原稿が5つと俳句の締め切り、講演会の準備が3つあって、とても風流を愛でる気持ちにはなりませんでしたが、中学校の時の恩師、村上満先生に招かれ、ご自宅でいも炊きをいただきました。
先生は国語の教育について話して下さいました。私は、現代文の解釈は数学と同じで論理を紐解いていくものだから、それを生徒に教えていただきたいと言いました。先生は「それだけでは自分の役割が無い。文学や評論の面白さを生徒に教えたい」と言われました。先生は宮沢賢治一辺倒の講義をされ、夏休みの宿題は宮沢賢治についての論文で中学1年生ながら原稿用紙20枚以上を要求されました。お陰で一人の作家をじっくりと読むという習慣が身に付きました。
月が天高く上がる頃、去来の俳句についての講義になりました。
岩鼻やここにもひとり月の客 去来
「どういうつもりでこの句を作ったか」と芭蕉に聞かれた去来は、「明るい月に興を感じて、山野を歩いていましたところ、岩頭に、私以外、もう一人の風流を好む人を見つけました」と言ったそうです。去来の考えでは『月の客』は、もう一人の先に居た人のことだったのです。しかし、芭蕉は「『ここにも一人の月の客』が居ますよと自分から名乗り出るほうが、どれほどの風流が感じられるだろうか。『月の客』を自分のこととした句とするべきだ」と言われました。去来はなるほど、最初の自分の句の解釈より何倍も優れていると考え直したといいます。現代風に解釈すれば「おや、あんな所に、月の光をさんさんと浴びている岩があるぞ。おお、そうだ、あの岩も月を愛でているのだ。おーい、お月さん。ここにも一人、月の客がいますよ」となりますでしょうか。去来が芭蕉の話を聞いて開眼したように、私もこの日は恩師の話に陶酔しました。本当に良いお月見ができました。家に帰っても妻はベランダに出て名月を眺めていました。きっと、いも炊きを食べ過ぎて、月見団子を2個しか食べられなかったことを悔やんでいるのだろうと解釈してみました。
平成25年9月21日